しょうじょう
有松祭礼と猩々文化
国立国会図書館「鳴海祭礼図」
猩々とは
中国の伝説に登場する想像上の生き物で、「お酒の神様」「親孝行の象徴」「富をもたらしてくれる福の神様」として人々から信仰され、日本各地においても、「能」の演目をはじめ、祭礼の場面にも登場するようになりました。
この地域においても、その昔、鳴海潟に1匹の猩々が泳ぎ着いた事から、名古屋市緑区鳴海町を中心に、旧沿岸部の地域の祭礼に登場しています。
最初にこの地域の祭礼で猩々が登場したのは、江戸時代中期の事---宝暦7年(1757年)の「尾張村々祭礼集」では祭礼行列に登場している旨が記述されています。この文献のほかにも、高力猿猴庵種信が描いた「鳴海祭礼図」では、安永8年(1779年)に鳴海八幡宮の祭礼を訪れ、その祭礼行列に猩々が登場する様子を絵付きで記録しています。
猩々は祭礼行列の先導役をつとめるほか、子供たちにとって大変身近な存在で、お祭りの季節になると、我先にと猩々をかぶり、町内を走り回っていたといいます。
背後から忍び寄って猩々にいたずらをしたり、猩々をからかって追いかけさせたり---怒った猩々は子供たちを追いかけ、子供たちはたたかれまいと逃げ回って過ごすのがお祭りの光景でした。猩々にたたかれた子供は健康に育つといわれています。
有松における
猩々の歴史
昭和10年(1935年)頃
大人形文化のはじまり
年代不明
昭和34年(1939年)
伊勢湾台風
平成14年(2002年)
中町の大人形復活
令和3年(2021年)
新時代を導く大人形
東町の猩々・天狗
東町が鳴海の猩々を真似て作成。
制作者は、猩々は田村さん、天狗は森鎌サと呼ばれる人物だったそうです。
※有松では天狗はサルタヒコの化身といわれており、猩々と共に山車の先導役をつとめています。
その後、中町も大人形を制作し、祭礼に出すようになったといわれています。
中町の猩々「キーカン」
「キーカン」は子供用の猩々で、他の猩々と異なり、見た目が黄色がかっていた事から「金柑(キンカン)」「キーカン」と呼ばれていたそうです。
小柄であった事から、木や火の見櫓に登って上から驚かせたり、天王坂を走り回ったりしてたそうです。
猩々「ぺしゃ」
子供用の猩々で、「キーカン」同様小柄の猩々だったそうです。
子供たちが被って走り回る際、転倒で顔が「ぺしゃんこ」になってしまった事から「ぺしゃ」と呼ばれていたそうです。
伊勢湾台風による被害で、「キーカン」が行方不明に。
伊勢湾台風をきっかけに、有松に何体かあった猩々は減り、東町の猩々・天狗のみとなりました。
「子供の頃猩々で楽しんだ想い出があるからこそ、現在の子供たちにも猩々で楽しんで貰いたい」
当時の還暦会が、東町の猩々・天狗をモデルに、新たに猩々・天狗を作成し天満社へ奉納した事から、中町の大人形が復活しました。
「新しい世を明るくお導きいただけますように、この地域に伝わる大人形文化が後世に受け継がれますように」
令和3年度の還暦会が、中町の天狗をモデルに、親子天狗を作成し奉納。有松の大人形文化の新たな幕開けを迎えました。